言語化しにくい感覚を観察する

三月の末、いわばギリギリに神戸に越してきて、二日ほどして新しい仕事場に向かった。要するに、荷ほどきも十分に出来ないままに新しい仕事が始まったわけだが、そのせいか、しばらく間、非現実感というか、ふあふあした感覚が抜けきらないままだった。この感覚はなかなか言語化しにくく、言語化しにくい分、わりと長く身体に留まっていたように思う。それが薄らいできたのは、先週あたり。

とはいえ、それで苦しんでいたかというと、確かにそういうときもあるにはあったけれども、いつもそうだったわけではなく、こういう感覚を得る機会もなかなかないだろうと思って、参与観察というか体験観察というか、折にふれて、これってどんなものなんだろうとじっと考えたりしていた。どういう場合に強まって、どういう場合に弱まるのか、などを観察してみたのである。すると、まあたいていの場合、iPodなどで音楽を聴いていると、その感覚はまず抑えられる。それで思い出したのは、会社を辞めてプータローをしていた頃のこと。あのときは無所属だったし仕事もなかったし、自分からのぞんで辞めたとはいえ、当初はやはりきつかった。そこで出かけるときは必ずウォークマンをしていた。一ヶ月くらいは手放せなかったと思う。確かバッハばかり聴いていたように思う。そのときは古楽器演奏のバッハに凝っていた。

今回もホントはしばらくそうすれば楽だったのだと思うのだけれども、あえてそうはせずに身を任せてみた。授業をしていたり、本を読んでいたりするときにはそうでもないので、そういう意味では、いつもいつもそういう感覚があるというわけではない。けれども、たとえば、朝、通勤電車(電車通勤なんて18年ぶりだ)で座っているときに、ふと本から顔を上げて向かいの座席の人の顔と、その後ろに真四角に広がる窓、まるで大伸ばしした6×6の画のようなそれを目にすると、そういう言語化しにくい非現実感がやってくる。あるいはバスで大学前に着いて、キャンパスを歩いて研究室に行く途中で、今入ってきた大学の門を振り返ると、そんな感覚がやってくるのだった。

先週あたりからそういう感覚も薄らいできたのは、もしかしたら、教授会の後に飲みに誘われて、結局一時くらいまで飲んだせいかもしれない。翌日午前中の講義は二日酔いのせいか、けっこうきつかったけれども、まあなんか悪くない感じだった。

Rolleicord Ia w/Toriotar 75mm F4.5, Across 100