
昆明からガサへ向かったのは到着した翌朝のこと。7時間かかるとかで、途中、道路沿いのレストランでの昼食となった。このとき初めて蜂のフライを食べたのだけれども、小エビの唐揚げによく似た香ばしい味。すぐに気に入って、以来出たときにはいつでもボリボリ食べつづけた。数日後、疲れていたせいかジンマシンが出たのだが、医者には蜂の食べすぎと言われた。本当かなあ。自分としてはタケノコの食べすぎのような気がする。どちらにしても食べすぎなのだが。
研究室に増設用本棚も届き、新しいMacも届いて、ようやく落ち着いてきた。まだすべての本を片付け終えたわけではないけれども、必要なものを見つけるのに段ボールをいくつも開ける必要がなくなったのはとても嬉しい。このように使いやすい状態になったのは、よく考えてみれば一年ぶり。昨年度は前の職場で耐震改装の引っ越し(春)があり、戻り(秋)があるのが分かっていたのでその間はできるだけ箱を開けないようにしていた。おかげで原稿などを頼まれると非常に苦労した(あんまり書いてないけど)。せっかく本を箱詰めしたこの機会にと応募した新しい職場への異動(転職)が決まると、今度はその引っ越し(春)のことを考えて、改装後に戻った研究室でもなるべく箱を開けないようにしていた。おかげでまたもや原稿には苦労した(やっぱりあんまり書いてないけど)。ようやくそのような生活から解放されつつある。となると、気分的にも落ち着いてくる。とはいえ、まだ20箱くらい開けていないけれども。
気分的に落ち着いてくると、新しい環境の良さもいろいろ見えてくる。先日、ぽっかり数時間空いたので、大阪ニコンプラザで開かれていた写真展に行ってきた。その後はスケジュールが詰まっていて、その機会を逃すと行けなくなるだろうと思ったので。都会に移ってきたためにこういうことができるのは嬉しい。おかげで手元の写真集でしかみたことのなかった森山大道の『大阪』の写真をいくつか見ることができた。やはり大きく焼かれたものはいい。写真集に比べて中間調のグレーが綺麗だった。井上青龍の『釜が崎』の写真も初めて見た。
都会に移ってきてもう一つ嬉しいのは、帰りに本屋に寄ることができること。いつも寄るというわけではないけれども、気が向くとちょっと寄れるというのがいい。もちろん熊本でも街まで行けば大きな本屋はあるのだけれども、わざわざ行くというのと、ちょっと寄れるというのはずいぶん違う。しかも僕の乗換駅の本屋は非常に大きくて、棚の間を流しているだけで楽しくなる。おかげで前から気になっていた写真集などを見つけ、ついつい買ってしまうのだった。
いまだ自家現像が出来るような境遇にはないのだけれども、デジタルばかり使っているとどういうわけか写真を撮っている気分になれないので、フィルムを使うことにした。越してきてはじめて片付けのための買い物以外で外出したということも大きい。F3でも良かったのだけれども、なんとなく軽い方がいいと思って、Zeiss Ikonを持ち出した。これを持ち出すのも久しぶりである。
で、どこに出かけたかというと、小学校一年生の息子がどうしても本物が見たいというので、太陽の塔を見に行った。テレビで見て行きたくなったという。
太陽の塔のすごいところは、いつまでも古びないところ。裏から見るとウルトラ怪獣みたいでなおすごい。万博公園にはそれほど長い時間いなかったのだが、息子はお目当ての塔がいたく気に入ったようで、これまでフィギュアなど欲しがったことないのに、太陽の塔のフィギュアが欲しいと盛んにアピール。そんなものあったのかと驚いたが、仕方がないので買ってあげると、家でも常にそれで遊んでいる。ちょっと不思議な光景。
しかしこれにはさらに後日談があって、僕は3日4日と勤務だったのだけれども、嫁さんと息子は3日にまた太陽の塔を見に行ってきたらしい…。どんだけ好きなんだ(笑)。
三月の末、いわばギリギリに神戸に越してきて、二日ほどして新しい仕事場に向かった。要するに、荷ほどきも十分に出来ないままに新しい仕事が始まったわけだが、そのせいか、しばらく間、非現実感というか、ふあふあした感覚が抜けきらないままだった。この感覚はなかなか言語化しにくく、言語化しにくい分、わりと長く身体に留まっていたように思う。それが薄らいできたのは、先週あたり。
とはいえ、それで苦しんでいたかというと、確かにそういうときもあるにはあったけれども、いつもそうだったわけではなく、こういう感覚を得る機会もなかなかないだろうと思って、参与観察というか体験観察というか、折にふれて、これってどんなものなんだろうとじっと考えたりしていた。どういう場合に強まって、どういう場合に弱まるのか、などを観察してみたのである。すると、まあたいていの場合、iPodなどで音楽を聴いていると、その感覚はまず抑えられる。それで思い出したのは、会社を辞めてプータローをしていた頃のこと。あのときは無所属だったし仕事もなかったし、自分からのぞんで辞めたとはいえ、当初はやはりきつかった。そこで出かけるときは必ずウォークマンをしていた。一ヶ月くらいは手放せなかったと思う。確かバッハばかり聴いていたように思う。そのときは古楽器演奏のバッハに凝っていた。
今回もホントはしばらくそうすれば楽だったのだと思うのだけれども、あえてそうはせずに身を任せてみた。授業をしていたり、本を読んでいたりするときにはそうでもないので、そういう意味では、いつもいつもそういう感覚があるというわけではない。けれども、たとえば、朝、通勤電車(電車通勤なんて18年ぶりだ)で座っているときに、ふと本から顔を上げて向かいの座席の人の顔と、その後ろに真四角に広がる窓、まるで大伸ばしした6×6の画のようなそれを目にすると、そういう言語化しにくい非現実感がやってくる。あるいはバスで大学前に着いて、キャンパスを歩いて研究室に行く途中で、今入ってきた大学の門を振り返ると、そんな感覚がやってくるのだった。
先週あたりからそういう感覚も薄らいできたのは、もしかしたら、教授会の後に飲みに誘われて、結局一時くらいまで飲んだせいかもしれない。翌日午前中の講義は二日酔いのせいか、けっこうきつかったけれども、まあなんか悪くない感じだった。